映画「ユンヒへ」
すごく良かった...。何度もポロポロ泣いた。人が勧めているのをみて何かに興味を持つことも好きだけど、自分の嗅覚で気になったものがちゃんと素敵だったときのよろこび。
秘密は秘密のままに。あのシーンが一番印象的だった。そうするしかなかった、というより「ただ」そうしてきたのだ、とでもいうように淡々とした事実として語られると、何も言えなくなる。凄まじいセリフだった。
寂しさや切なさを感じた瞬間もあったものの、なにより"あたたかさ"を感じたのは何故だろうと考えていた。きっとそれはユンヒとジュンが確かにあれからの20年を歩んだ、道のりそのものの温度なのだ。受け入れるとか、乗り越えるとかいう言葉を私の立場からあてがうのは少し違うと思っていて、言うならば、持った命を、心を、運んできた。そして、ひとときも忘れたことはなかった。そういうことだと感じた。これからも2人はそれぞれに、降り積もったばかりの雪に最初の一歩を踏み出す。足跡の残る場所は少しずつ、だが確実に溶けてゆく。
この動画がきっかけで映画に興味を持ったのだけど、sesoneon「winter」もより一層大切な音楽になった。
スペース「ウチらのサイゼ会」1/29
苔さんがほぼ毎週土曜の夜に開催しているスペース。この日はスヌドさんとの雑談回。このスペースが始まってから、私は自分でも気がつかないところですごくこの場所に支えてもらっているのだと思う。
苔さんは開始早々荷造りをしていて、時々ガサガサ!って音が入るのだけど、それに対して、暮らしてるからさ!みんなも各々暮らしながら聴いてよ!としょっぱなからパワーワードが飛び出す。そういう自由さが好きだし、こういうのが往々にして日常に足りないのだと気づかされる。
サイゼ会に集まったみんながそれぞれの恋愛に対するモヤモヤや、セクシュアリティに関する悩みなどを持ち寄り、みんなで考える。苔さんの知識量の多さと言語化能力の高さには毎度驚かされるし、苔さん自身もたくさん悩み、内省を繰り返しながら話をしている、その姿自体に励まされる。簡単には解決しないようなことばかりだけど、同じように自分自身のあり方に戸惑っているひとがいるんだと思え、それだけで安心する。SNSなんて無ければ、とか考えることもあるけど、たまにこういう場所に出会えるからよかった。ドリンクバーだけで延々いられる、毎週通います!という感じ。
来週はその名も「暮らし回」ということで今から楽しみ。”同居人が、自分が歯磨きしながら話す言葉を聞き取ってくれるようになった”なんていう、見ず知らずの人のそんな話まで聞けてしまうの、あまりに嬉しすぎる。
kokeのブログ「同性ふたり暮らし宣言」
上のふた項目のことについて書いたのが1/31で、今この文章は苔さんのはてなブログが投稿された後の2/3に書いている。今読めてよかった。特に「『ふつうの恋愛のあり方』に馴染めない/馴染まない」の項目は本当に大切な話をしていて、私自身無自覚にあった思い込みが正されていく感覚になった。
重要なのは、同性を好きになる指向性を持つということと、恋愛を重要視することは全くの別問題だということである。
映画・スペース・ブログ、友人との会話など、これらを通して、”自分が何にもやもやを抱えているのか”を今なら、全てではなくとも少しは文章にできる気がするので書いてみる。
私の現在の自認は異性愛者であるが、世の中全体に蔓延る「恋愛至上主義」に馴染めずにいる。今現在恋愛をしていないし、恋愛の優先順位が低い。その立ち位置が社会においては肩身が狭いことも自覚していて、そのことが悔しい。そしてそれと同じように「誰かが誰かを愛する」という極めて個人的でまず誰にも何にも侵されるべきでない大切な感情が、(生きている限り常に)社会と接続している、そのときに形を変えることを強いられる、みたいな状況も解せない。そこからフェミニズムに興味をもったし、知見を増やしていきたいと感じたのだと思う。
私が私の感情に素直でいることに、後めたさを感じていたくない。各々のもつ他者への"情"(愛情、友情、またはそのどれにも属さずまだ名前のついていない情)が、社会によってねじ伏せられたりないことにされてしまうことがどうか少なくなってほしい。
これが今の私の立ち位置かな。うまく言葉にできていないところもあるけれど。
その時々で気になっているトピックについてのいろいろは目に入ってきやすいもので、この辺も読んだ。
昨日2/2にダウ90000の本公演を見たことも書きたかったけど次のエントリーにする。いろいろなものに触れすぎて感じてしまいすぎているな、ほどほどにしないと。でもこういう感受性や文化に触れていられるエネルギーもいつ失ってしまうかわからないし。できるだけ残していきたい。